東側の燈籠 東面 京屋と堺屋 八軒家浜の船宿の一つである京屋忠兵衛は、新選組の定宿で芹澤鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司らがしばしば利用しました。 慶応4年(1868)1月8日、鳥羽伏見の戦いの後、大阪城を焼け出された新選組隊士たちは、ここ京屋に宿泊したのち江戸に帰還しました。 また、京屋の隣にあった堺屋源兵衛は伏見の寺田屋と業務提携しており、勤王の志士たちがしばしば利用しました。 坂本龍馬も八軒家を利用した一人です。 西面 八軒家のいわれ 江戸時代、大阪は商業の街として発展し、京都~大阪間を航行する三十石船などで、たいへん賑わいました。 当時この辺りには八軒の船宿があり、八軒家と呼ばれるようになったと言われています。 八軒家浜古写真 南面 八軒家浜 燈籠の由来 安政七年(1860)、夜の乗下船時の安全のため、地元の町人が燈籠を建てました。 その燈籠は明治時代頃に生國魂神社へ移され、北門に現存しています。 この燈籠は残されていた図面をもとに、当時の大きさに合わせて復活させたものです。 当時の図面 北面 寄贈者名 ◆西側の燈籠